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京都にもあった! 明治時代の大動脈に造られた石造アーチ橋「王子橋」

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久御山JCTや大山崎JCTといったジャンクション(JCT=高速道路上の立体交差地点)を、橋梁エンジニア(技術士:建設部門)で愛橋家の丹羽信弘さんとともに探検してきたこのシリーズ。今回はちょっと趣向を変え、亀岡市にある石造のアーチ橋「王子橋」へ行ってきました!
こちらの王子橋、実は歴史的に見てスゴイ橋だったんです!今回は丹羽さんに、この王子橋について解説していただきました!!

明治時代に作られた石造アーチ橋を訪ねる

王子橋があるのは亀岡市と京都市のちょうど境目。京都市側から行くと明智光秀軍が本能寺へ向かう時に通ったといわれる老ノ坂をのぼり、老ノ坂トンネルを抜けた先、カーブの付近にあります。

もちろん今回もガイドは建設コンサルタントの橋梁エンジニア(技術士:建設部門)で愛橋家の丹羽信弘さんです。

こちらが王子橋。とっても美しくて立派な橋ですね~。 石で造られたアーチ橋は江戸時代から残る九州の眼鏡橋や通潤橋などが有名ですが、こんな立派な石造アーチ橋が京都にあるなんてびっくり!
最初、「王子橋」とは、なんてステキな名前(王子様の橋?) と思ったのですが、どうやら名前の由来は恐らくこの土地の「王子」という地名から取られたみたいです(現・亀岡市篠町王子、当時は南桑田郡王子村)。

さて、王子橋が架けられたのは明治17(1884)年。保津川支流の鵜ノ川に架けられ、石の材質は花崗で、長さは28.5m。『関西の公共事業・土木遺産探訪 第3集』によると九州以外では最長なのだとか。しかも丹羽さんによると「土木学会の選奨土木遺産に認定されている橋で、今年(2022年)、138歳を迎える高齢の橋なんですよ」とのことで、とても歴史のある橋なのですね。

王子橋の歴史をチョイ堀り!

橋をじっくり見る前に王子橋の歴史を少しだけ紐解いてみましょう。
王子橋が架けられた明治はまさに激動の時代。明治4(1871)年に行われた廃藩置県の後、明治9(1876)年に第2次府県統合が行われ、京都府には丹後五郡と丹波の国 天田郡(福知山市の大部分)が編入。これにより京都府は丹後半島や久美浜など北から南まで長い土地を有することになりました。
ところが当時、宮津⇔京都間の移動は徒歩で二泊三日もかかったのです。丹後の生糸やちりめん、海産物を京都に運ぶ人はもとより、京都府議会に行く丹後の議員さんもいくつもの峠を徒歩で越えて往来していました。そこで早急に、京都と宮津間を結ぶ車道「京都宮津間車道」が必要となりました。

琵琶湖疏水の夷川船溜にある北垣国道の像

この壮大な道路計画が可決したのが第3代京都府知事・北垣国道(きたがきくにみち)の時。5か年計画で明治14(1881)年に着工しました。しかし工事は予想以上に難航し、完成したのは当初の予定より3年遅れた明治22(1889)年。工事費も予定より膨らみましたが、これにより京都市の大宮七条を起点として大枝、亀岡、八木、須知、福知山、河守、由良、栗田を経て、宮津にいたる約139㎞の縦貫道路が完成(前の地図の赤い線がそれ)。
そして宮津⇔京都間は一泊二日と大幅に短縮。道路の幅も3間(約5.5m)となり、馬車や荷車も通りやすくなったことで明治26(1893)年には直通馬車が開通。所要時間が約15時間にもスピードアップしました。現代でいうならば高速道路と高速バスというところでしょうか。このような素晴らしい大動脈が明治14年に完成したのです。

田邊朔朗が設計した琵琶湖疏水の水路閣

そして、今回訪れた王子橋が架けられたのが、この京都宮津間車道なのです。橋の設計者は田邊朔朗。あれ? 北垣国道知事+田邊朔朗といえば「琵琶湖疏水」の建設で有名ですよね。そう、こちらの橋の工事にもこのお二人が関わっておられました。
橋が掛けられたのが明治17(1884)。琵琶湖疏水工事の着工が明治23(1890)年なので、それよりも前に造られたことになるんですね。
「橋が完成したとき田辺朔朗はまだ23歳頃!ということは、20歳そこそこの頃に設計していたことに・・・凄いですね」と丹羽さん。

 

王子橋を眺める

それでは橋をじっくり見ていきましょう。その前に少しだけアーチ橋の構造の説明を。石造のアーチ橋は図のように、大まかにはアーチを支える輪石(わいし)、壁石(かべいし)、アーチの頂上部分で組み合わせる輪石の要石(かなめいし)などで構成されています。「この橋で面白いのが輪石の形です」と丹羽さん。
「通常、輪石は大きな石を合わせてアーチを作るのですが、この輪石は小さな石を4つ組み合わせて造られているんです」
よく見ると、その小さな石を組み合わせて盾のような形に整えてあり、そこから壁石と面で上手く繋がっていますね。

「土木学会選奨土木遺産」認定書と認定のプレート

土木学会選奨土木遺産認定証には“輪石と壁石が夫婦天端で一体化した非常に珍しい構造形式”と書いてありましたが、夫婦天端(みょうとてんば)とは、『関西の公共事業・土木遺産探訪 第3集』によると2つの石を使って盾状の五角形にする手法のことだそうです。そして「目地がピタッとくっついていますね。非常に高度な技術です」と丹羽さん。
確かに明治時代に建てられた銀行やビルのよう。『亀岡市史』によると地元の大工 山名乙次郎氏が携わったとされています。
「材料である花崗岩も地元で採られたようですね」
なるほど、地元で採れた石材を使えばコストが随分削減できますもんね。色が異なる石が配されていて、モザイクみたいでキレイだなあ。「それに、下を流れる川からかなり高さがあるので、橋脚を設けず一跨ぎで、石造アーチ橋としてはアーチのスパン(支間長)が大きく、アーチの形状も円よりもずいぶん偏平ですね。これは職人さん達の気概を感じます!」
なるほど。そういう所も見るときのポイントになるんですね。王子橋はその後、道路の改築に伴い昭和8(1933)年、1mの嵩上げと左右50㎝ずつ幅が張出し拡幅され、コンクリートを用いた欄干部ができ、親柱に照明設備が供えられました。

現在、照明は取り除かれていますが親柱は残っています。

初代の親橋は橋のすぐ近くに作られた綺麗な花壇に置かれていました。ここに立てられたプレートを読むと、この親柱は王子神社で王子区民により大切に保存されていたのだそうです。今も橋周辺は地元の人々の手で美化されていますし、この石橋は今も昔も地区の人々の誇りなのですね。

f:id:kyotoside_writer:20220401152718j:plain王子橋は昭和44(1969)年まで使われていましたが、国道9号の改築により、隣に新たな橋が架けられたため、今は歩行者用として使われています。

少し足を延ばして

f:id:kyotoside_writer:20220328134448j:plainこのまま老ノ坂を京都市方面に進むと京都宮津間車道の時に作られた老ノ坂トンネルが現れます。このトンネルは明治14(1881)年から開削工事が始まり、翌年中に完成しました。京都側の入口には北垣国道知事の揮毫による「松風洞」という銘板が架けられました。(現在は下に置かれています)。

王子橋の横、京都縦貫自動車道に架けられたコンクリートのアーチ橋

さて明治17年に造られた王子橋は、まさに京都の新時代を担う道路整備の一環として架けられました。京都縦貫自動車道が全線開通した時も素晴らしいと思いましたが、それよりもっと前、明治時代に京都の南北が鉄道より早く道路で結ばれ、流通や人の行き来が盛んになったのですね。今度、この辺りを通る時は、ぜひ注目してみてください!

■■INFORMATION■■
王子橋
京都府亀岡市篠町王子

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