ひらがな、カタカナ、書き初め、ひな祭り、端午の節句、……今でも私たちの生活に息づいているこれらの文化は、すべて平安時代が発祥です。平安時代は日本独自の文化が花開いた時代。平安生まれの雅やかな文化や風習が、その後時代に応じた形へと進化し、現在へと至ります。
早速、詳しく見ていきましょう。
漢字から作った日本独自の文字「かな文字(ひらがな・カタカナ)」
平安時代以前、書き言葉には漢字や日本語の発音に近い漢字が主に使用されていました。しかし、中国との交流が途絶えるとともに、「かな文字」が広く普及し始めます。この変化により、感情や思いをより豊かに表現できるようになり、王朝文学が花開きました。
かな文字はその柔らかで優雅な印象から、文章に独自の美しさをもたらし、また文字の美しさを楽しむ書道文化も生まれました。
また、「ひらがな」は漢字をくずして簡略化した形を指し、「カタカナ」は難解な経典を読む際に付けられたふりがなが起源です。これらの文字は、漢字の一部を利用して生まれました。
興味深いことに、この時期には日本独自の漢字も作られました。「堅い魚=鰹(かつお)」など、漢字同士を組み合わせて意味が分かりやすくなるような工夫が凝られています。
詩歌文化から生まれた「書き初め」は現代に続く新年の伝統
平安時代の宮中で行われた行事や儀式は、日本の伝統文化や祭りの源流となっています。その中でも、書き初めは宮中で行われた儀式「吉書の奏(きっしょのそう)」が起源とされます。この儀式の趣旨は、新しい年や改元などの節目に、天皇に文書を献上して政務が順調に進むようにお祈りすること。当時、貴族の間で詩歌や文章の執筆が流行し、「書」を書くこと自体を楽しむ文化が栄えました。書を用いたメッセージは、プレゼントの贈り物や新年の挨拶の一環として広がりました。
江戸時代に入ると、庶民の間でも新年に良いことを願う詩歌を書く習慣が広まり、これが現在の書き初めの形になりました。
現代では、京都の北野天満宮などで、学問の神様であり書道も巧みな菅原道真の功績を称え、書道の上達と成長を祈る「書き初め」が年始の恒例行事として行われています。
雅な人形を愛でる桃の節句「ひな祭り」は宮廷文化を再現
3月3日のひな祭りの起源とされる「桃の節句」。3月の最初の巳の日を指しています。川で身を清めて災厄を払うといった中国の風習が、平安時代に日本に伝わりました。その後、「人形流し」と呼ばれる紙やワラの人形を川に流す習慣と、貴族の子女たちの間で流行した「ひいな遊び」(現在のままごと)が結びつきます。
室町時代になり人形作りの技術が進むと屋内でひな人形を飾るようになります。これが現在の「ひな祭り」に発展しました。その後、江戸時代にはひな人形が宮中の装束を模して作られ、豪華な段飾りが一般的に。庶民も人形や桃の花を飾り、白酒を飲みながらひな祭りを楽しむようになりました。特に京都では、宮廷文化や装束を再現した「有職雛(ゆうそくびな)」が作られ、独自の飾り方が受け継がれています。
現在、京都の神社仏閣では古式ゆかしいひな祭りの行事が行われているほか、巨大なひな壇に飾られた迫力満点のおひなさまを展示するイベントが開催され、訪れる人々を楽しませています。
貴族、武士、町人・・・時代とともに変化した「端午の節句」
現在、こどもの日として祝われている5月5日の「端午の節句」。5月の最初にあたる「午(うま)」の日を指しています。古代中国では5月は悪月とされ、そのため災いを祓う儀式が行われました。この風習が日本にも伝わりさまざまな文献に登場します。
清少納言の『枕草子』に「節は五月に尽く月はなし。菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)などの香りが漂い、その趣きが美しい」と記され、また、紫式部の『源氏物語』に薬玉を贈り合って楽しむ様子が登場しています。
宮廷では「端午の節句」になると建物の軒には菖蒲や蓬が取り付けられ、臣下たち自分の冠に菖蒲を飾ったり、菖蒲の葉で作った薬玉を柱に掛けたりしました。また、厄災を追い払うという意味で、競馬(くらべうま)などの勇ましい催しも行われました。
その後、貴族から武家の時代へと移り変わり、「端午の節句」は武士社会で広く祝われるようになります。それに伴って兜や鎧を飾る習慣が生まれ、男の子を祝うお祭りとなりました。また、鯉のぼりは江戸時代に町人階級で始まり、鯉の生命力に基づく伝説に基づき、子供の成功を願う飾りとして親しまれました。
平安時代の「七夕」は短冊ではなく、植物の葉に和歌を書いて願い事を
7月7日は「七夕の節句」で、また「笹の節句」とも呼ばれます。この行事は中国の織姫と彦星の伝説に由来し、日本では「棚機女(たなばたつめ)」と呼ばれる乙女が織物を捧げる「棚機(たなばた)」と結びついたもの。また、中国では同じく7月7日に手芸や習字の上達を星に祈る「乞巧奠(きっこうでん)」という行事がありました。貴族たちはこの行事を模して、「梶(かじ)」という植物の葉に和歌を書いて願い事をしました。
江戸時代には全国的に広まり、短冊に習い事の上達などを書き、竹笹に吊るして星に願う行事へと変化しました。中国の伝説と風習、そして日本の古い行事が結びつき「七夕」は今でも大切に受け継がれています。現在、京都府では、夏の風物詩として知られる「京の七夕」が、旧暦の七夕にあたる8月に「願い」をテーマにイベントが開催されています。
動物を取り入れた遊戯が盛んに!伝統漁法「鵜飼」もそのひとつ
中国から伝わった「闘鶏」は、古代の日本では『日本書紀』にも記されており、貴族から庶民まで広く楽しまれていました。平安時代に入ると、貴族たちは娯楽の幅を広げ、鷹を使った鷹狩りや飼い慣らした鵜を使った鵜飼など、独自のエンターテインメントに発展させました。特に鵜飼は王朝の人々によって優雅な船遊びとして愛され、現在では、京都の夏の風物詩として観光客や地元の人々に親しまれています。
ちなみに、猫をペットとして飼う習慣も平安時代に始まります。元々は奈良時代に中国からネズミ駆除のために導入されましたが、平安時代になると猫は愛らしいペットとして一般的になりました。
いかがでしたでしょうか。このように古くからの日本の風習や文化は、平安時代に根付き、日本の豊かな伝統や美意識を形成し、今でも私たちの生活に息づいていることがわかりました。当コラムをきかっけに平安時代をより身近に感じていただけると嬉しいです。
◾️◾️参考文献◾️◾️
『平安貴族 嫉妬と寵愛の作法』(繁田信一 監修/ジー・ビー発行)
『図解雑学 日本の文化』(中澤伸弘著/ナツメ社)
『大河ドラマ 光る君へ 紫式部とその時代』(倉本一宏 監修/宝島社)