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秀吉や利休も愛でた♥天王山の絶景 ~435年前の6月13日は天王山の合戦~

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「天下分け目の“天王山”」「夏は受験の“天王山”!」
 天王山といえば、こんなキャッチコピーを思い出します。みなさんもよく目にしますよね^^

秀吉VS光秀の「山崎の合戦」。主戦場となった大山崎町は、淀川と天王山にはさまれた隘路(あいろ)で、交通の要衝でした。

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合戦に勝利した秀吉は天王山山頂に山崎城を築造し、大山崎を城下町として保護。1年あまり居城としていたそうです。

また秀吉は、茶頭となった千利休に天王山麓の利休屋敷に茶室「待庵」をつくらせ、利休らとともに大山崎で茶会を開いています。

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そんな歴史ゆかしい天王山。秀吉や利休も愛でていたであろう絶景をお目当てに、ぜひハイキングしてみましょう!今回は読者のみなさんへ60min、80min、100minと、3タイプのプランをご用意しました。その日の気分でチョイスして★

【60min】今すぐ絶景がみたい!

デートにもピッタリ、大パノラマに感激

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 超駅近、アクセス抜群!気分転換に街中からふらりと電車に乗って気軽に訪ねることができるのが一番の魅力。標高270メートル。宝積寺に登山口があるハイキングコースは約4.8キロの道のりでゆっくり歩いても約1時間。小学生でも軽々歩けるレベルの整備された歩きやすい山道で、ハイキングが苦手な人でも心配ご無用^_^各展望台にはベンチがあり、爽やかな山の風を感じながらのコーヒー&おやつタイムは至福のひととき。山頂の広場ではのんびりピクニックもできます。

★2大絶景スポット★

三川合流展望台 (青木葉谷展望台:あおきばだにてんぼうだい)

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(↑ドローンで撮影した写真) 

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(↑通常の撮影写真)

 7合目。南東には石清水八幡宮のある、なだらかな丘のような男山。その手前には木津川、宇治川、桂川の3河川が合流。大パノラマが広がります。まさに絶景!晴れた日は約35キロ離れた大阪の「あべのハルカス」まで見えちゃいます!!

旗立松展望台(はたたてまつてんぼうだい)

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8合目。ここが記念写真の撮影スポットです。(↑ドローン撮影部隊のみんな。ドローンで記念写真を撮ってみました!)

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(↑ドローンにて撮影)

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(↑通常の撮影写真)

天王山の合戦時、この山をいち早く占拠した秀吉軍が士気を高めるために、松の上に秀吉のトレードマーク「千成ひょうたん」の旗を掲げたと伝えられることから旗立松と呼ばれる松があります。(鳥居のすぐ近くにある松、探してください。解説板もあり)東側には一部、京都盆地を眺望することができ、山々が遠く美しいシルエットとなって浮かび上がっています。

【80min】どっぷり歴史ロマンに浸かりたい!

超豪華、特大サイズの歴史小説!?に描かれた天王山の合戦と3人のヒーロー

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435年前の6月13日。夕方16時ごろ。天王山を擁する大山崎町で、秀吉VS光秀の「山崎の合戦」が繰り広げられました。その際、「敵の動きを把握できる重要な場所」として天王山の陣取り合戦が行われたといいます。

軍勢の数に劣る光秀。天王山と桂川に挟まれた、道幅が極端に狭くなる西国街道で、秀吉の大軍が通行に難儀しているところを一気に撃破すること以外勝ち目がなかったようです。

一方、秀吉にとっても光秀に天王山を占拠されると進軍に甚大な影響が出るため、絶対に互いが譲るわけにはいきません。まさに戦の勝敗を握る要所、それが「天王山」とされ、いち早く山を占拠することが戦いの勝敗を分けるカギとなったのです。

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ハイキングコースに設けられた「秀吉の道」には、「秀吉の天下取り」をテーマに、本能寺の変、中国大返し、山崎の合戦、秀吉の制覇の歴史物語を、壮大な陶板絵図の絵巻物で辿ることができます。今にも飛び出してきそうなリアルな戦シーンは必見です!

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漠然としかイメージできなかった歴史のアレコレ。歴史小説テイストの解説文は、さらに想像力がかきたてられて実におもしろい!!

▼「秀吉の天下取り」陶板絵図と物語をみる

http://oyamazaki.info//wp/wp-content/themes/yamazaki/map/hideyosi.pdf

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(イラスト:キリヌケ成層圏http://kirinuke.com/

★天王山の合戦&3武将まとめ★

陶板絵図に登場する3武将をおさえておけば、もっとおもしろくなるはず!

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【織田信長】

そもそも「山崎の合戦」のきっかけとなったのが、11日前の6月2日に起こった「本能寺の変」。信長の天下統一まであと一歩というタイミングだった。中国攻めへ向かう際、宿泊した京都・本能寺において家臣・光秀に襲撃された。天下統一を急ぎ、家臣たちを信用しすぎていたあまり、自らの身辺警護を怠っていたのが、この油断を招いたようだ。山崎の合戦では、信長の三男・信孝と織田家の重臣・丹羽長秀が秀吉軍と合流し、父親そして主君の仇討ちを果たすことができた。

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【明智光秀】

「三日天下」という有名な言葉を残した光秀は、かつて足利義昭と信長の仲介役を果たし、信長に手腕を買われ家臣となった。しかし、独裁者・信長との政治思想の違いや日ごろの憎悪の念などから、クーデターを起こして信長を倒したといわれている。それが歴史的大事件の「本能寺の変」である。

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その後、山崎の合戦では光秀軍約1万6,000人VS秀吉軍約4万人と兵力の大差で大敗する。光秀はすぐ近くの勝龍寺城に逃げ込み、その後本拠の近江坂本城を目指して落ち延びようとするが、山科の竹藪で落ち武者狩りに刺され、その後自刃する。実に短い天下だった。

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【豊臣秀吉】

農民出身、超野心家&筆まめで有名。信長が襲撃された時(本能寺の変)、秀吉はちょうど備中高松城・毛利攻めをしていたところだった。光秀が、信長の死を知らせる手紙を毛利方へ送ったはずが、なんとその手紙は秀吉の手に渡ってしまった。信長の死を知った秀吉は毛利氏とすぐ和睦に持ち込み、毛利軍を味方につけ、すぐに京へ戻る。岡山から京都間、総距離235Kmをわずか6日で行軍。これが有名な「秀吉の中国大返し」である。

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その間、秀吉は畿内の諸大名たちに数々の書状を送るなど、秀吉の的確な判断と迅速な行動により2万以上の援軍を確保することに成功した。戦のスタートが16時、ちょっと遅いような気もする。それは四国攻めへ向かう直前の信長の三男・信孝と丹羽長秀の戻りを待っていたからだった。「主君の仇討ち」という大義名分を掲げて挑んだ山崎の合戦。最後まで現場の士気を下げないように、信長の息子と織田家の重臣・丹羽長秀を総大将とした秀吉の山崎の合戦は、圧勝に終わった。

【100min】+α魅惑の隠れ名スポットも巡りたい!

幕末の史跡、圧巻の仏像、希少建築を訪ねてみよう

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★仏像 宝積寺(宝寺)

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閻魔堂の中に安置されている威圧感がスゴイ5体の仏像に注目!閻魔王が待つ、天王山の裁判所に出廷した気分・・・です。閻魔王を中心に、脇侍には泰山府君・五道転輪王。前列には司命・司録という書記官のような役割をする仏像も安置されています。

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なぜにこんなにリアルに怖いのか。その秘密は、水晶が入った人間そっくりのギラギラしたにあります!このことより鎌倉初期の作だと推定できます。閻魔王たちの怖さとは裏腹に、お供え物は大量のゼリー。カワイイもん食べはるんやな(笑)なんて、ちょっぴり和みます。

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桃山時代の仁王門では、大迫力の金剛力士像が出迎えてくれます。上が阿形、下が吽形。重要文化財に指定。

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またここは、一説によると山崎の合戦時、秀吉が本陣を置いていた場所。秀吉が一夜で建立したと伝わる三重塔や、秀吉が腰かけたといわれる出世石など、秀吉ゆかりのスポットもあります。

★幕末 十七烈士の墓

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1864(元治元)年、幕府軍VS長州軍の攻防戦、“禁門の変”(蛤御門の変)に由来するスポットがここにも。

尊皇攘夷派であることから長州軍へと参戦した真木保臣は大山崎町の宝積寺に陣取ります。やはり天王山、時代を経ても軍事上、重要な場所ということがわかります。戦いは御所を中心に繰り広げられ長州VS会津、長州が優勢かと思われましたが、薩摩が援軍に駆けつけたことにより、逆転。さらに会津と新選組の追撃で敗退。真木ら17名は天王山中で自刃しました。当初、17名のお墓は宝積寺にありましたが、1868(明治元)年に現在地に移されました。(写真の右上、下)

★建築 自玉手祭来酒解神社(たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ)

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頂上から100mほどのところに神社があります。鳥のさえずりがいつの間にかずっと遠くに聴こえ・・・。ひんやりとした空気に包まれた神秘的な空間でした。

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創建年ははっきりとしませんが奈良時代にはすでにあったと伝わる、大山崎周辺では最古の神社。地元では「さかとけさん」の名で親しまれています。現在の本殿は1820(文政3)年に再建されたもので、登録有形文化財に指定。とくに珍しい建築物は写真左下、鎌倉時代に建てられた神輿庫。日本にある板倉式倉庫としては最古の例といい、重要文化財に指定されています。

■宝積寺
075-956-0047
閻魔堂のみ400円、9時~16時拝観可
JR山崎駅から約徒歩10分

■大山崎町観光サイト
(ハイキング情報はこちら↓↓)
http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/kanko/index.html

■大山崎町 天王山歴史巡りハイキング

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