京都府の北西部、福井県と滋賀県に隣接する南丹市美山町には、西日本屈指の広大な森林地帯「芦生研究林(あしうけんきゅうりん)」があります。この森は京都大学の学術研究ならびに実習を行う研究林で、今回は特別な許可を得て取材で入らせていただきました。
本日は魅惑の森・芦生研究林と、ここで行われているシカ害対策の研究についてご紹介します。
かやぶきの里を越えて山奥へ…京都大学の教育研究施設・森林ステーション
京都市内から車を走らせること約2時間…森の京都・南丹市美山町のかやぶきの里を抜けて、山の奥へ奥へと進みます。道案内の看板を頼りにたどり着いた場所こそ、京都大学フィールド科学研究センター・森林ステーション「芦生研究林」です。
敷地内に入り、山小屋風の研究林事務所に到着しました!
この芦生研究林では、動・植物の生態や分類、林業、気象や地形、社会学など、実に多岐にわたる研究やフィールドワークが行われています。構内には、事務所のほかに宿泊所、資料館(斧蛇館)、車庫や倉庫、職員宿舎などがあります。
「おはようございまーす!」と、爽やかに私達を出迎えてくれたのは、笑顔が素敵なこちらのお二人。
本日の案内役である、京都大学芦生研究林・技術職員の紺野絡(めぐむ)さんと、京都大学生態学研究センター・研究員の福島慶太郎先生です。
今日は、芦生研究林を案内してくださるとともに、ここで行われているさまざまな研究についてもレクチャーしてくださいます。
紺野さんは、技術職員として主に芦生研究林の管理・運営を行っています。林道整備や除雪作業、研究者の代わりに水や植物を採取されるお仕事をされており、言うなれば、芦生の森を知り尽くすスペシャリスト!京都大学は全国に研究林を持っており、芦生研究林には現在7名の技術職員さんがいるそうです。
福島先生の専門研究は「物質循環」…というとちょっと複雑で難しいため、簡単に言うと、水を通して森のサイクルを研究していらっしゃいます。具体的には、鹿の被害がひどい所とそうでない所の水質がどのように違うかを調べて、鹿が水質を変えるかを研究しているそう。本日は水の採取がてら、わたし達の取材にも同行してくださいます。
今回は私達は取材のため特別に入らせていただくのですが、芦生研究林では、研究・教育に支障のない範囲で、GW明けからクリスマス前くらいまでの期間で、一般の方の入林を許可しています。
林内に入る場合は、事務所または構内入り口にある仮入林受付ボックスで申請書に記入し、中にあるポストに投函します。
一般の方が入る場合、コース(林道)は決まっていますが、奥の天然林エリアまで入りたい場合は、提携している4団体のネイチャーガイドを付けて入るのが決まりです。詳しくは芦生研究林HP(利用案内)を確認してくださいね。
いざ、芦生研究林へ入林!!一体どんなところ??
事務所で長靴をお借りして、紺野さんが運転する研究林用トラックに乗り込みいざ、出発!
車中では紺野さんが芦生研究林について説明してくれました。
元々、この地は研究や実習のために京都大学が大正10(1921)年に99年の地上権を設定して借り受けている場所なのだそうです。地上権の終了は2020年で、現在は更新に向けての準備を始めているそう。
西日本屈指と言われる芦生研究林の面積は約4,200ヘクタール。四角にすると6キロ×7キロ、京都市の碁盤の目がほとんど入る大きさなのだそうですよ。
林道途中から舗装路が終わり、ガッタガタになる凸凹道とゲートを抜けていくこと数十分…いよいよ本格的に芦生研究林のエリアの中へ。まるでジュラシックパークみたいで冒険心がかきたてられますが、ここは取材!気を引き締めて、中に入らせていただきます!!
車で進んで行くとブナが見え出しました。芦生研究林は標高350~950メートルに位置し、大体600メートルあたりから上は冷温帯と呼ばれる寒冷な気候となり、それより低い所は暖温帯となります。車で進むと両方の気候帯に生える植物を一気に見ることができます。太平洋の気候と日本海の気候がちょうど混ざり合う場所でもあり、冬には積雪が2メートルくらいあるそう(!)いくつもの気候帯があるので、森の多様性が高いのです。
芦生研究林を利用する機会が多いのは、京都大学農学部の森林科学(芦生に実習に来て、森林の生態学をひととおり学ぶそう。福島先生もこの学部出身)と、動物や植物など広い範囲の生態学を学ぶ理学部生物学科の学生さん。この2大学部の教員や学生を筆頭に、社会学や芸術など幅広いジャンルで、国内外問わず、多くの人が研究・実習・インスピレーションを求めて訪れる場所なのだそうです。
芦生研究林発祥の「クマはぎ対策」
しばらく車の中から森を眺めていると、不思議な光景に出くわしました。木の幹にプラスティックテープがぐるぐると巻かれています。これは芦生研究林が発祥と言われている、クマはぎ対策です。
森林内にはツキノワグマが生息しており、クマは樹皮をはいで幹をかじり、栄養をとる行動をすることがあるそうです。しかし、木は樹皮を剥がれると枯死してしまうため、造林木を守るための対策なんですね。
なぜプラスティックテープを巻くのかというと…
福島「プラスティックテープは長い方には裂けるけど、横断する方にはなかなか裂けない。クマも爪がひっかかってうまく裂けないんですよね。そして、杉の樹皮は簡単に大面積が剥げるため、クマにとって一度に大量の樹液を食べて満足できる食物なので好まれています。テープが巻いてある樹木は樹皮を剥がしにくいことをクマが学習して、対策してある樹木にはアタックしなくなると考えられています。」
実際にクマはぎの被害にあうと、こうなります↑(写真の幹にある白い線は、歯形!)
樹皮を剥がすと、その部分はもう育ちません。樹皮と剥けたところの境界は成長するにつれて中に巻きこむように育っていくし、木の中心も腐ってしまうため、林業屋さんにとっては非常に困るため、クマはぎ対策で木を守っています。
歩みを進めていくと…目にしたさまざまな動・植物
車に揺られておよそ50分。炊事用に建てられたという長治谷の小屋の付近で車を降りて、ここからは徒歩で、森の中へと入っていきます。
紺野「せっかくなので、珍しい光景をお見せしましょう」
小屋の裏の小さな川へと誘われたわたし達、そこで目にしたものとは…!?
小川の中にびっちりいたのは、ひっくり返すとお腹が赤いアカハライモリ。京都府の準絶滅危惧種だということですが、この川には見たことないくらい、いっぱいいました、まるでイモリの川!
紺野「上を見てみてください。」
と言われ、顔を上げたところ目に飛び込んできたのは…樹木の枝葉の影にぶらさがる無数のモリアオガエルの白い泡みたいな卵、卵、卵!!水のある場所の上に卵を産み付ける習性のモリアオガエル。その卵からかえって、落ちてきたおたまじゃくしをイモリが下で待ち受けて食べちゃうのだそうです…これも自然の摂理ですね…。
動物の生態以外で、植物にも非常に興味深いものがたくさんあります。
この森に生えている「アシウスギ(芦生杉)」と呼ばれる杉も、とても珍しい杉なんです。アシウスギは、雪の重みで枝葉が地面に付いたら、普通はボキッと折れて死んじゃうところ、そこから根を出して、別の個体(クローン)として成長していくのです!
枝葉を見ると、普通の杉よりもやわらかく、葉もくにゃっと曲がるのは、雪が落ちやすいようにという生き物の知恵であり、雪が多い場所での進化。葉に雪が付きにくい、地面に付けば根を張る。その土地柄に合わせて、何万年もかけて進化しているんですね。
車が入れず、通常ネイチャーガイドさんが一緒でないと入れないという、鳥獣保護区へと入っていきます。研究以外ではあまり人が足を踏み入れない天然林エリア…足元は悪く、すべったり、ぬかるみにもよく足をとられます。こけないように足下ばかり注意して歩いていると、顔にいきなり木の枝葉のカウンターパンチをくらう・・なかなかにスリリングな現場でした!
もう何度目かの川も、ジャボジャボと中を渡って歩きます。長靴を貸してもらって本当によかった…。
道なき道や湿原帯、川を渡って進んでいくので、これは本当に技術職員さんかネイチャーガイドさんがいないと中へは入れません。
珍しい植物も、数多く目にしました。
湿地の中でポワポワしていた畳の原料となるイグサ、緑の大きな葉っぱをもつオオバアサガラ、群生していたシダの仲間イワヒメワラビ、猛毒で有名なトリカブトも!!本物を目にするのは初めてです・・!他にも、絶滅危惧種のアシウテンナンショウ、別の木にぐるぐる巻き付くフジやツルアジサイなども。
なんと、ここに今ある植物には共通点が―。
それは、シカが食べない植物ばかりが残っているということ!!一見、森の中は緑が大変多いのですが、そのほとんどがシカが食べない植物ばかりと聞いて驚きました。最近、京都府内に取材に出かけるとよく聞く「シカの食害問題」…府内のみならず、全国でもかなり深刻な問題となっていますね。
シカの食害問題に立ち向かう「ABCプロジェクト」
芦生の森でも、シカの食害の危機に直面しています。
歩き始めて約1時間、私たちは、3人目の芦生スペシャリスト・京都大学大学院農学研究科の高柳敦先生がいらっしゃる、U谷に到着しました。
高柳先生は、1980年代からこのような被害問題に取り組んできた食害研究の第一人者。培ってきた経験とノウハウを活かし、ご自身が設計・開発・設置した大規模防鹿柵を広範囲に張り巡らし、シカの侵入を防いでいます。こういった芦生の森をシカ害から守る取り組みを「芦生生物相保全プロジェクト(ABCプロジェクト)」と言い、2006年より高柳先生を中心に京都大学の有志で活動を行っています。
※ABCプロジェクト⇒AshiuBiological ConservationProject
ニュースでもよく取り上げられていますが、シカの食害は甚大です。
シカが食べすぎて植生(生えている植物の集まり)が一旦なくなって地肌が見えた場所には、なかなか植生は戻りません。たとえシカを排除したとしても、戻るのは難しいと聞きました。こういう山肌、確かによく見ますよね。シカはここ20年ほどでものすごく増えてきたようですが、それにはいくつかの理由が考えられ得るそうです。 その主なものをあげると、以下のようなものです。
●シカを撃つ猟師さんが高齢化して人数が減り、シカを減らせなくなった。
●昔はシカを食べる狼がいたけれども絶滅してしまった。
具体的に、シカの食害対策とはどのようなことを行っているのかというと…
高柳先生達は2006年の6月に、芦生研究林内の約13ヘクタールにも渡る一つの谷(集水域と呼びます)を囲む尾根上に、支柱約300本と、2.3メートル×50メートルの防鹿ネット35枚を学生と一緒に張り巡らし、柵内にいた鹿をすべて追い出しました。が、これで終わりではありません。芦生は雪が降ると数メートル積もるため、冬場はネットを全部下ろします。4月に雪が溶けてからネットを上げ、12月になったら下ろす…ということを毎年繰り返しました。高所、そして急斜面に大規模に張り巡らしているため、作業は毎回困難を極めますが、見事、シカの侵入および食害防御に成功!
しかし、これはシカとの長い戦いの始まりだったのです。
網目の大きさは、5センチ幅。シカには複数の網目を切って1つの大きな穴を作り出すという知恵はないため、この大きさならば、ネットを破ることはできません。これで最初の5年はシカの侵入を防ぐことに成功しました。
ところが5年後、防鹿柵の奥にエサがあることに気づいたシカは、なんとかして中に入ろうと、ネットを咥えて引きちぎるという力技でネット内に入りこんだのです!
それに対して高柳先生は、ネット下1メートル部分(シカの頭の位置)を二重構造にして対応します。それでもシカは下からの隙間を見つけたり、葉が絡んで重みで下がった柵を見つけだして無理矢理入り込むなど、人とシカとの知恵比べは10年近く続きました。
そうして試行錯誤を続ける高柳先生が新しく開発したのが、下1メートルにだけステンレスを入れて、地面部分30センチだけL型になる仕組み、高さ2.3メートルの新型・AFネット!!(AFとはアシウフォーレストの略称) ステンレスを下1メートルにだけ入れたのは、山での作業は重いことと金額が高くなることを避けるためです。
このAFネットを使うと鹿を約10年間排除することが出来るそう。
ここ芦生で培われた柵の技術(=AF規格)は、この先、森林を守っていく技術として広がってくのではないかと言われています。近畿圏ではだいぶ広がりを見せており、滋賀の伊吹山の花畑を荒らした鹿のために、約30ヘクタール全部を囲っているのがこのAF規格の防鹿柵で、ようやく今、回復し始めているそう。
U谷では、資金の関係でまだAFネット導入には至っておらず、目の細かいネットで二重構造にするなど、現在も知恵比べは続いています。
シカ柵のおかげで取り戻した“本来の森の姿”
という訳で、防御柵の説明をしてもらった後、いよいよ柵の中、つまり、本来の森の姿を取り戻した場所へと先生達の誘導のもと、足を踏み入れました。
そこに広がっていたのは、柵の外とはまったくと言っていいほど違う、緑の植生豊かな森林世界。
柵の外では見られないさまざまな植物が群生しており、一面を取り巻く緑の別世界に、思わず見惚れてしまいました…。どこかでこんな風景を見たことがあるなと思っていたら、そう!ジブリの世界です。
芦生とは元々、こういう豊かな場所だったのですね…。
芦生研究林では、このように防鹿柵でシカの食害から植生を守るエリアを作りつつ、一定の時期に猟師さんを入れてシカの個体数を調整し、森林環境の維持・回復に努めています。
ABCプロジェクトは、シカをゼロにするわけではなく、森を守るためにもシカが悪影響をおよぼさない程度に調整して、よりよい自然を取り戻そうという活動を行っています。
大学がこの森を管理している意義
ここで、福島先生による川の水の採取風景を見せてもらいました。
福島「森林の状態や生態系の連鎖は、水質が物語ってくれます。」
防鹿柵は1つの集水域を全部囲っており、囲った場所とそうでない場所で採取した川や雨の水をそれぞれ分析し、どんな物質がどれくらい入っているかの比較を行ったところ、川に含まれる窒素の量が,柵で囲った集水域でだんだんと少なくなっていったそうです。囲っていない場所(=鹿がいて下層植物が少ない場所)では、空から雨とともに降る窒素が(本来は下層植物が吸収していた分が)そのまま土を通して川に溶け出すため窒素量が多いそう。窒素は多くなればなるほど、赤潮やアオコといった下流域の水質汚染の原因になります。
「シカが食べる下層植物の有無がどれだけ水質に影響を与えるか」が世界で初めてわかったのが、ここ芦生での研究を通してだったそうです。
福島「高柳先生が柵を作って、紺野さん達技術職員に水をとってきてもらう…皆さんの協力があってこその発見です。」
高柳「シカの影響は、植物が生えてる生えてない以上に、水質にまで影響を及ぼしていることは、集水域単位で比較することで初めてわかりました。シカは生態系全体に影響を与えていて、それがわかったのは、芦生という大きな研究林を大学が管理していて、職員を配置することで研究サイトをきちんと維持できているからこそ。大学が研究林をもつ意義があるんです!」
福島「樹木医ってありますけど、僕の場合はもう森林医ですよね。森のお医者さん♪」
高柳「いいすぎだろ。君の場合は森のお医者さんごっこだ。」
先生と教え子とのほのぼのとしたやりとりをほほえましく見守る職員さん…という大学ならではの関係性も、ちょっと面白かったKYOTOSIDE編集部なのでした^^
「生命」を感じる奇跡の巨木―芦生のシンボル「大カツラ」
最後に…下谷にて、今まで資料写真でしか見たことがなかった本物の大カツラの木にご対面!!
胸高直径は340センチ!樹木の高さは約40メートル、はっきりした樹齢はわからないのですが200〜300年は経っていると言われる巨木です。
実はこの大カツラ、元々は別々に3本生えていたカツラの木に苔がつき、飛んできた種や鳥が食べて糞として排出した種がその苔を土壌として着生し、現在はなんと14種類の木から成り立っている奇跡の木。
14種類の中にはヤマザクラも入っているそうで、春になると桜の花を咲かせるそうですよ。
この大カツラを見ていて思い出したのは、「となりのトトロ」。種から芽吹いた木がどんどん大きくなっていくシーン。あの木が現実に、目の前に現れたかのような錯覚を覚えました。
とてつもない生命力を感じる木で、芸術家や芸大の先生が複数名、この木を描くために現地を訪れているそうです。周囲には独特の甘い香りが立ち込めていたのですが、これはカラメル臭という、カツラの木が放つ香りだそう。見た目も香りにも惹きつけられる、なんとも不思議な木でした。
ヒグラシの鳴き声を聴きながら眺めた大カツラの木を最後に、芦生の森の冒険は終わりました。
京都にこのような広大な原始の森があることにも驚きましたが、ここが大学の研究林であり、私達の生活の中には、ここでの研究内容が生かされていたり、今後生かされていくことが多くあることも発見でした。
知られざる芦生研究林の実態に迫った今回の取材は、貴重な機会だったと思います。ご協力いただきました先生方、本当にありがとうございました!!
※研究林の自然を体験したい、どんな研究がされているか知りたいという一般の方に対して、条件付きでの入林が認められていますが、必ず規定を厳守してください。
■■INFORMATION■■
京都大学 芦生研究林
住所:京都府南丹市美山町芦生
TEL : 0771-77-0321
http://www.ashiu.kais.kyoto-u.ac.jp
ABCプロジェクト -森林生物学- 京都大学
http://www.forestbiology.kais.kyoto-u.ac.jp/abc/