来年の干支は丑。京都で丑にまつわる神社といえば、「学問の神様」こと菅原道真公をまつる北野天満宮を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。境内にはたくさんの牛の像があり、多くの受験生が合格祈願を祈って一心になでる光景はおなじみですよね。では、どうして、北野天満宮に牛の像があるのかご存じですか?
そこで今回は、北野天満宮を訪れ、菅原道真公と牛にまつわる逸話や境内にある牛の像の数など、北野天満宮と牛とのつながりについて調べてきました。
学問だけではない!さまざまな御利益がある天神さん
道真公の御霊を鎮めるために創建された北野天満宮
北野天満宮は、全国に約12000社ある天満宮や天神社の総本社で、古くから「北野の天神さん」「北野さん」と親しまれています。北野天満宮が創建されたのは、今から約1000年以上前の天暦元年(947)。当時・西ノ京に住んでいた多治比文子(たじひのあやこ)や近江国(今の滋賀県)の比良宮で神官を務めていた神良種(みわのよしたね)、北野朝日寺の僧・最珍らが北野の地に神殿を建て、道真公の御神霊をおまつりしたのが始まりとされています。
これまでの神社の御祭神といえば、『古事記』や『日本書紀』などの神話に登場する神様やその土地で古くからまつられていた氏神がほとんどでした。しかし、道真公が左遷先の太宰府で没して以来、京都では洪水や長雨、干ばつ、疫病が毎年のように続き、さらに、道真公を追いやった中心人物の藤原時平をはじめ宮中の要人が次々と亡くなる事態に。これが「道真公のたたり」だという噂が広まり、彼の怨霊を鎮めるために、京都御所の西北・天門にあたる北野の地に神社を創建したのです。つまり北野天満宮は、日本史上初めて実在の人物をまつった神社ということになるわけです。
その後、藤原氏によって大規模な社殿の造営が行われ、永延元年(947)には一條天皇の勅使が派遣。国家の平安が祈念されました。この時「北野天満大自在天神」の神号が認められ、国家国民を守護する神として崇められるようになりました。
江戸時代には寺子屋を通じて、「学問の神様」としての天神信仰が盛んに
皇城鎮護の神としてまつられた道真公が、現在のように「学問の神様」としても慕われるようになったのは江戸時代のこと。全国各地に読み書き算盤を教える寺子屋が普及し、その教室内に天神様がまつられたり道真公の姿を描いた御神影が掲げられたりするようになり、道真公は「学問の神様」「芸能の神様」として、全国津々浦々、老若男女問わず尊崇されるようになったといわれています。
菅原道真公はどんな人物だった?
マルチな才能を発揮した希有な人物
北野天満宮の御祭神である菅原道真公とはどんな人物だったのでしょうか。承和12年(845)6月25日、学者の家に生まれた道真公は、わずか5歳で和歌を詠み、11才で漢詩を創作するなど神童として注目を集めました。やがて成人し、33歳で学者のトップである文章博士(もんじょうはかせ)に。その後、政治家としても卓越した手腕を発揮し、宇多天皇の右腕として活躍。醍醐天皇の寛平6年(894)には、遣唐使の廃止を提言しました。「894(白紙)に戻そう遣唐使」の語呂合わせは、あまりにも有名ですね。
しかし、先ほどもご紹介したように、藤原時平などの策謀によって、昌泰4年(901)に太宰府へ左遷。そのわずか2年後の延喜3年(903)、道真公は同地で薨去しました。
道真公の誠実な人柄、そして晩年に託(かこ)った不遇はやがて様々な伝説を生みました。そのひとつが天神信仰です。「天神」とは元々、高天原(たかまがはら)の神々、天津神(あまつかみ)を指していますが、道真公が祀られた北野の地には、古来、天神地祇(てんしんちぎ)の神々を祀り、また雷の神である火雷天神(からいてんじん)が祀られる場所でもありました。これらの神々を奉祀し祭祀が営まれてきた聖地北野に道真公が祀られました。そして永延元年(987)、時の一條天皇より「北野天満大自在天神」の御神号を賜り、道真公はいよいよ「天神」として世々に信仰されて行くのです。
道真公と牛の深い縁
現在まで残る多くの伝説
道真公と牛にまつわる伝説や逸話も、数多く残されています。そのひとつをご紹介します。
太宰府へ左遷され同地で亡くなった道真公。「人に曳かせず牛の行くところにとどめよ」との遺言から牛車に柩を載せ出発すると、突然牛が道端で臥して動かなくなりました。従者たちは「牛が動かなくなったのは、道真公がこの地に遺骸を埋めよ」という遺志なのだろうと、近くの安楽寺(現在の太宰府天満宮)に埋葬したと伝わっています。この逸話から、北野天満宮にある牛の像はほとんどが腰を下ろした姿勢で佇んでいます。
また、道真公が太宰府に流される途中、大阪・道明寺で刺客に襲われた際、道真公が都にいた時にかわいがっていた牛が突如現れて刺客を追い払ったという伝説など、道真公と牛にまつわるエピソードは枚挙にいとまがありません。
雷は「雨が降る前兆」であることから、農耕の神様としてもまつられている道真公。農耕で大切な労働力である牛と道真公が結びついて、天満宮に臥牛がまつられているともいわれています。
道真公が生まれた承和12年(846)と没した延喜3年(903)は、奇しくも同じ丑年。道真公と牛とはきっても切れない関係性だったことがうかがえます。
境内の牛の像に会にいこう!
1体1体が全て違う表情の「なで牛」
北野天満宮の境内には神の使いとして十数体の牛の像がまつられており、全てが同宮を信仰する集団や個人によって奉納されたものです。それぞれに表情や素材が異なっているのも特徴的な牛の像に会いにいきましょう!
大鳥居を抜けた先にいる牛さんは、闘牛のように強そうなお姿をしています。
こちらは、少し小ぶりな牛さんです。
つぶらな瞳がキュート!
こちらの牛は、よく見てみると…。
お乳を飲むかわいい子牛の姿が!
手水舎でも牛さんが参拝客を出迎えてくれます。
こちらは、マーブル模様がアーティスティックな牛の像。
こちらの牛は、よく見てみると…
目が真っ赤!
楼門の先に佇む一際大きなこちらの牛の像は、多くの人から「赤目の牛」と呼ばれています。なぜ赤いのかは定かではありませんが、一睡もせずに道真公の帰りを待つ忠義の心を表現したともいわれています。ちなみに京都観光に訪れた受験生を案内する観光タクシーの運転手さんが「あなたたちの代わりに牛さんが一睡もせずに合格を祈るから目が充血してるんやで」と紹介することもあるのだとか。その話を聞いた受験生は、合格を祈願しこぞって赤目の牛をなでるのだそうです。
境内最古のなで牛に祈りを込めて…。
ご利益あらたかな「なで牛」
北野天満宮を参拝する時に必ず訪れたいのが、境内の北西の位置にある一願成就所です。こちらには、同宮で最も古い牛の像がまつられており、「一願成就のお牛さま」と呼ばれ親しまれています。
いつ頃この牛の像がまつられるようになったかは定かではありませんが、古くから多くの人々が天神様の使いである牛の像に願いを込めなでていたことが「なで牛」の民間信仰として定着。ただひたすらに、わらをもつかむ思いで牛の像をなでる尊い行為は、やがて、全国の天満宮・天神社に広まるようになりました。
現在も、病気平癒を願う参拝者や合格祈願の受験生などが毎日この社を訪れ、心からの願いをなで牛に託しています。また、牛の像の奥には絵馬掛所が設けられ、病気平癒や受験合格などを願う絵馬が毎年10万枚以上奉納。毎年4月には、お焚き上げの祈願絵馬焼納式が行われています。
本殿の牛はどうして立っているの?
北野天満宮七不思議の「立ち牛」
北野天満宮の境内には、牛の像以外にも灯籠に刻まれた牛などをたくさん見ることができます。本殿の欄間にある「立ち牛」もそのひとつ。しかし、こちらの牛は4本足でしっかりと立っています。なぜこの一体だけが立っているのかは、現在でもわかっていません。
北野天満宮には、他にも、初雪が降ると天神さんが降臨し雪見を愛でながら詩を詠むといわれる「影向松」をはじめとする七不思議があり、この立ち牛もそのひとつに数えられています。
令和3年(2021)の初詣はどれ程の人出?
感染症予防対策を十分に行った上で参拝を
京都でも指折りの参拝者を誇る北野天満宮。例年、3ヶ日には60万人以上が参拝。前回の丑年である平成21年(2009)には、例年の1.5倍以上の参拝客が詰めかけたそうです。また、受験シーズンと重なるため、3ヶ日に限らず1月に多くの参拝者が訪れるのも、同宮の特徴。2月中旬には梅が見頃を迎えることから、この時期にも多くの人でにぎわいます。
■■INFORMATION■■
北野天満宮
住所/京都市上京区馬喰町
TEL/075-461-0005
参拝時間/6:30〜17:00
※毎月25日のライトアップは日没~21:00まで
※秋のライトアップは日没~20:00まで
※状況により、時間・内容の変更・中止の可能性があります。
詳しくは、北野天満宮ホームページ等をご確認下さい。
受付時間/お守り9:00~16:30(本殿前「授与所」)
交通/市バス「北野天満宮前」から徒歩すぐ
駐車場/あり
料金/境内自由(宝物殿は一般800円)