トップ学ぶ > <大阪・関西万博>京都における博覧会の歴史を知ろう

<大阪・関西万博>京都における博覧会の歴史を知ろう

  • Xアイコン
  • Facebookアイコン
  • はてなアイコン
  • Lineアイコン
  • Pocketアイコン
  • Linkアイコン

いよいよ「2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)」が413() から開催されます。皆さんは、日本国内で最初に博覧会が開催されたのは「京都」だということをご存知でしたか?
今回、KYOTOSIDE編集部は、日本美術史・美術館学を専門とされる並木誠士先生(京都工芸繊維大学名誉教授・美術工芸資料館館長)に、日本における博覧会の歴史について、お話をうかがってきました!

「万国博覧会」で日本ブームが巻き起こる!

並木誠士先生

「日本人が初めて接した博覧会は、幕末の1862(文久元)年。イギリスで開催されたロンドン万国博覧会 なんですよ」と並木先生(写真)。
江戸幕府がヨーロッパに派遣した遣隋使ならぬ「文久遣欧使節」がイギリスに滞在し、視察としてロンドン万博を訪れました。その時、翻訳方として同行した福沢諭吉は、ヨーロッパの国々で見聞きしたものを『西洋事情』(1866年)という書籍にまとめ、博覧会について以下のように記しています。

1862年第2回ロンドン万博 会場内部・最終日付近の風景

1862年第2回ロンドン万博 会場内部・最終日付近の風景 画像提供:国立国会図書館ウエブサイト・柏書房

西洋ノ大都会ニハ数年毎ニ産物ノ大会ヲ設ケ、世界中ニ布告シテ各々其国ノ名産、便利ノ器械、古物奇品ヲ集メ、万国ノ人ニ示スコトアリ、之ヲ博覧会ト称ス
(西洋の大都市には数年ごとに産物の展覧会を行い、世界中に告知をして各国の名産、便利な機器、古物、珍しい品を集めて万国の人に公開しています。これを博覧会といいます)

これにより、博覧会という存在が日本中に知れ渡ったそうです。

澳国博覧会場本館日本列品所全図] 

澳国博覧会場本館日本列品所全図 画像提供:国立国会図書館ウエブサイト

さらに1867(慶応3)年には、2回パリ万国博覧会に幕府と薩摩藩、佐賀藩が参加。
1873(明治6)年のウィーン万国博覧会では、日本政府として万博に初の公式参加をします。
展示したのは浮世絵や染織品に伊万里・瀬戸・薩摩焼などの陶磁器をはじめとした工芸品や美術品など。さらに敷地内には神社と日本庭園を造り、これによりヨーロッパに日本ブーム、「ジャポニスム」が巻き起こりました。

日本最初の博覧会は京都で開催

一方、京都では1869(明治2)年、天皇が東京へ移ってしまったことにより町は大打撃を受けていました。
公卿や商人など、京都の伝統産業のパトロン的な人たちが京都からいなくなってしまったため、当時の京都府知事も琵琶湖疏水を造るなど、京都の活力を呼び戻すための対策を考えますが、その中で、民間から博覧会をやろうという動きが起こります。
呼びかけたのは鳩居堂の主人・熊谷直孝や三井家の当主・三井八郎右衛門、金融業 小野組・小野善助といった3豪商。
「さまざまなところから入ってくる情報により、博覧会をやると世界にこのようなものがあるとか、実物を見せながらこのような新しい技術があると紹介することができる。つまり啓蒙ができるということを知ったんですね」
そして1871(明治4)年1010日から1111日までの約1か月間、西本願寺書院で日本初の「博覧会」が開催されました。これには11,000人余もの人々が来場し、大変な評判を呼びました。

博覧会のための会社を設立?!

しかし準備不足はいなめず、展示品は家のお宝みたいな品が多かったようで、後に骨董市のようだと反省するような内容だったようです。
そこで体制を立て直そうと、開催後すぐの11月に京都博覧会社を設立します。会社といっても、今の会社とは意味が異なったそう。
「いうならば実行委員会のような感じのものですね。1890(明治23)年に名前が京都博覧協会に変わるのですが、この方が、雰囲気が分かりやすいかもしれませんね」

これは民間主導の半官半民のような組織で、先ほどの熊谷直孝や三井八郎右衛門、小野善助の3氏らに加えて京都府の職員も加わりました。
実はその頃、東京でも政府が西洋医学所薬草園で博覧会開催を予定していましたが、当初の思惑であった啓蒙的なものにならなかったようで、名前を物産会と変えて開催しました。

第1回京都博覧会の余興として京の春の風物詩が誕生

博覧会写真

『The Far East』  画像提供:同志社大学図書館

充分な準備を行い、翌年の1872(明治5)年310日~530日に第1回京都博覧会が開催されました。今度は規模を大きくし、西本願寺書院に加え、建仁寺と知恩院を加えた3か所で開催されました。

『京都博覧会沿革誌』

第一回京都博覧会の展示内容 『京都博覧会沿革誌』京都博覧協会,明36.12. 画像提供: 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/801765 (参照 2024-12-13)

「目録(写真)を見ると現在、国宝になっているような有名な作品や寺院のお宝なども出品され、随分とやり方を変えたのだろうなということが伺えます」

第1景「置歌」花道

画像提供:祇園甲部歌舞

また、「付博覧」つまり余興として、祇園町の都をどり、先斗町の鴨川をどりが行われました。京都の春の風物詩ともいわれるこのおどりの会は、京都博覧会がきっかけだったのですね!
第1回京都博覧会は好評を博し、翌年に第2回を計画します。
「面白いのは第2回から会場が京都御苑になるんです。しかも清涼殿や仙洞御所も使い、動物園も作られました。博覧会を開くことになったきっかけは京都に天皇が不在になったからですが、今度は逆に不在なことをよいことに御所でやろうと考えるところが京都の人のしたたかさだなと思います(笑)」
この時は御所見たさに訪れる人もいて、大変な賑わいだったそうですよ。

明治14年に建設された京都御苑内常設の博覧会会場図 画像提供:京都府立京都学・歴彩館

明治14年に建設された京都御苑内常設の博覧会会場図 画像提供:京都府立京都学・歴彩館

また、第1回からは日本に滞在している外国人も特別に訪れることができるようになり、第2回では英文ガイドブックも作成されました。(当時、日本に滞在している外国人が移動できるのは居留地とそこから十里=約40キロ以内のみだったのですが、政府により京都博覧会を見に行く特別許可が下りました)

以来、昭和3(1928)年までほぼ毎年開催され、10回目からは御苑内の一角に常設の博覧会場が造られます。さらに1897 (明治30)年には京都市左京区の岡崎に博覧会館が造られ、1914 (大正3)年以降は京都市勧業館が会場となりました。

「後には京都博覧会は、新古書画の展覧会、染織の展覧会などと名前が変わり、テーマが絞られていくようになるのですよ」。

誘致合戦に勝利し、内国勧業博覧会開催へ

楊洲橋本直義『内国勧業博覧会開場御式の図』,

楊洲橋本直義『内国勧業博覧会開場御式の図』,山本利兵衛,明治10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1307420 (参照 2024-12-20)

一方、東京の上野では1877(明治10)年、政府により国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目の育成を目的とした内国勧業博覧会が開催されます。
この博覧会は45万人以上もの人々が来場し、大変な注目を集めたことから3回まで東京で開催。さらに1984(明治27)年に開催が予定されている第4回は誘致したい都市が現れました。

第四回内国博覧会

第四回内国博覧会平安神社大極殿之図 画像提供:京都府立京都学・歴彩館

もちろん京都も手をあげます。しかも開催予定年の翌年、1985(明治28)年は平安遷都1100年であることから、その記念行事として開催することをアピール。
「当時、世の中は幕末に結ばれた不平等条約を解消しようという富国強兵の空気があり、実際に1894(明治27)年に日清戦争が起こりますが、そのように戦争をする一方で、国力を示すためには日本が文化国家であると見せつける必要があったわけです。さらに1100年という歴史がある都は世界にそうはありません。ですから長い歴史や高い文化力を世界に見せつけるために、平安遷都千百年紀念祭と内国勧業博覧会を一緒にやる方がよいと誘致活動をしたんですね」

この誘致合戦には東京はもちろん大阪、神戸も参加しましたが、平安遷都千百年紀念祭にあわせることが決め手となり京都に決定。しかも開催年を1年ずらし、遷都1100年である1985(明治28)年に行うこととなりました。

『風俗画報』 94号 (明治28.6.18)「会場全景」

『風俗画報』 94号 (明治28.6.18)「会場全景」画像提供:国立国会図書館ウエブサイト

会場は京都市左京区の岡崎地区に決定。現在は京都市京セラ美術館やロームシアター京都、京都府立図書館などが立つ文化エリアですが、当時は水田と畑ばかりの地。
そこにさまざまな施設―工業館、農林館、器械館などが建てられました。
「勧業博覧会ですからメインは農業館や工業館ですし、京都博覧会も一貫して京都の伝統産業、例えば繊維産業などを近代化するためにヨーロッパから持ってきた新しい機械などを展示したんですね」
加えて水産館、美術館、動物館も建てられました。

平安神宮と会場遠

平安神宮と会場遠景国立画像提供:国会図書館ウエブサイト

目玉は平安京遷都当時の約8分の5に縮小して復元された平安宮朝堂院正殿の大極殿(だいごくでん)、応天門(おうてんもん)などといった建物。さらに展覧会に先立ち平安遷都を行った第50代桓武天皇を祀る神社として平安神宮が創祀されました。

画像提供:しろくま舎

さらに七条停車場から博覧会場を経て、南禅寺船溜りまでを結ぶ約7キロを走る日本初の市街電車が開業(写真はかつて岡崎公園に置かれていた市電の車両)。京都の町には博覧会に合わせてたくさんの観光客が訪れ、思惑通り、活気付きました。
その後、京都市左京区岡崎では1915(大正4)年に大正天皇位大礼を記念して「大礼記念京都博覧会」が、1924(大正13)年には「東宮殿下(昭和天皇)御成婚奉祝万国博覧会参加五十年記念博覧会」、さらに1928(昭和3)年に昭和天皇の即位を記念して「大典記念京都大博覧会」を開催することとなります。

いかがでしたでしょうか。日本で行われた初めての博覧会が京都で行われたこと、そして民間主導だったというのは驚きでした! …と同時に、編集部にとっても、万博を身近に感じられるきっかけにもなりました。
今後もKYOTO SIDEでは、京都×万博の意外なつながりについて追いかけていきますので、今後もぜひお楽しみください。

◾️◾️取材協力・記事監修◾️◾️

並木誠士先生(京都工芸繊維大学特定教授・美術工芸資料館館長)
専門は日本美術史。徳川美術館学芸員、京都大学助手、京都造形芸術大学助教授、京都工芸繊維大学大学院教授等を経て、現在京都工芸繊維大学特定教授、2008年より同大学美術工芸資料館館長。
主な編著書に、『近代京都の美術工芸Ⅱ―学理・応用・経営―』(編著、思文閣出版、2024年)、『近代京都の美術工芸-制作・流通・館賞-』(編著、思文閣出版、2019年)、『日本絵画の転換点『酒飯論絵巻』: 「絵巻」の時代から「風俗画」の時代へ』(昭和堂、2017年)、『図案からデザインへ近代京都の図案教育』(共編著、淡交社、2016年)、『絵画の変日本美術の絢爛たる開花』(中央公論新社、2009年)、『美術館の可能性』(共著、学芸出版社、2006年)など。

【参考資料】
総務局 https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu-archives/07edo_tokyo/0703kaidoku/0703kaidoku_old/0703kaidoku20/0703kaidoku20_2
博覧会―近代技術の展示場 https://www.ndl.go.jp/exposition/index.html 
平安遷都千百年紀念祭 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi30.html
明治京都における官製「美術」概念の受容―京都の博覧会と美術商・「美術館」をめぐって― 山本真紗子

明治初期京都の博覧会と観光 工藤泰子
『大博覧会展』図録 京都工芸繊維大学 美術工芸図書館

  • Xアイコン
  • Facebookアイコン
  • はてなアイコン
  • Lineアイコン
  • Pocketアイコン
  • Linkアイコン

ふるさと納税ポータルサイト

特集

同じカテゴリの記事

<大阪・関西万博>京都における博覧会の歴史を知ろう

【京都の学校給食】京丹波町の名産”丹波くり”で笑顔あふれる給食タイム 

日本最古の招き猫伝説が京都にもあった!~檀王法林寺~

舞鶴市・雨引神社の「城屋の揚松明」~夏の夜空を焦がす京都の火祭り~

公式アカウントをチェック!

ページトップアイコン